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『恐怖』とは何か?

 

2002年3月26日

人間(と特定の動物)の持つ感情の1つに『恐怖』というのがあります。
いわゆる『怖い』という意識の事ですね。
そこでふと思うのですが、この『恐怖』という感情はどこからくるのでしょうか?
これについて何人かが集まって議論をすると、おそらく色々な意見が紆余曲折して飛び交うと思いますが、ここでは私なりに思う『恐怖』の定義というのを語っていきたいと思います。


『恐怖』を感じる時の状況や定義などは人によって色々と異なるようですが、しかし1つだけはっきりしているのは、『怖い』という感情のおおよそは、『知らない、分からない』という部分にほぼ全てが集約されているものだ、と私は思っています。
知らないから対象を怖く感じる、つまり『未知のもの=怖いもの』となるのではないか、と。


まず、ホラー映画。
一般的に、血や内臓がドバドバ出るスプラッタ系よりも、幽霊や超常現象などをメインとしたオカルト系の方が怖いといわれています。
ではなぜそんなオカルト系の映画が怖いのかというと、劇中に出てくる幽霊や超常現象がなぜ起こるのか?という部分にあるのではないかと。
いうなれば、そういった現象の正体が謎でありわからない奇怪な存在だから、それらの類の映画は見てて怖いと感じるのではないでしょうか。
オカルト系のホラー映画を見ていると、前半は怖かったけど後半の怖さはイマイチだった、ということがよくあります。
それは、前半の展開では超常現象や事件などの原因と理由が一切解明されておらず、登場人物も視聴者もなぜそのような現象や事件が起こるか全くわからないからなのでは。
そして、わからないため恐怖する。
後半になって怖さが半減することが多いのは、物語もいよいよ佳境にさしかかり、今まで起きた事件や超常現象などの原因や正体が次第に明らかになってくるからではないか、と思うんですよね。


そして闇という存在。
夜、つまり闇が怖いと感じるのは、幽霊が出そうだとか不気味だとかそういうの以前に、視界が制限されるからこそ、怖さを感じるのだと思います。
分かりやすい例として、学校など。
夜の学校は怖い場所の代表だというのは、おそらく誰もが同意する事でしょう。
ではなぜ怖いか?
学校は街中と違って夜に活動する場所ではなく、そのため夜になると一部(宿直室など)の場所を除いてほとんどの場所は電気が完全に消されて真っ暗な状態になります。 言うなれば、街灯に値する物が使われていないということですね。
その結果、学校は基本的に真っ暗な状態。
そして、真っ暗であると言う事は、見えないという事。
つまり、何があるか分からない。
だから、夜の学校は怖いのではないでしょうか。
昼間の学校の場合、例えそこに誰もいない状態だったとしても、夜ほどの怖さは感じません。
なぜなら周囲の見通しがいいため、見えるから。
そして見えるので、何があるか分かる。
そのため、怖さはほとんどないのだと思います。
夜の山なども同じ。
光が無く、また立ち並ぶ木によって周囲がよく見えないからこそ、怖いのではないでしょうか。


幽霊やお化けの存在。
なぜ存在するのか、どういう理論で存在するのか、そもそも本当に存在しているのか、というのが曖昧で分からないからこそ、人は幽霊を怖い存在だと感じているのだと思います。
つまり、幽霊という存在自体より、そこにいるはずのないものがいる、あるはずのないものがいる、理論的にはありえないような現象が起こる、という『知らない』のと『分からない』事に対して『恐怖』を感じるのでは。
今現在、科学的には幽霊という存在は否定されていますが、もし仮に幽霊という存在の実態と正体が現在の科学によって理論的な方面で正確に解明され、そして理論的な解釈の裏打ちによって幽霊は存在するものだというのが正式に認められた場合、人々の幽霊に対する見方は、はたしてどのように変わるのでしょうか?
そして、もしも幽霊なるモノが存在して、そして幽霊の目的、意識、実態などが明らかになり、更にはコミュニケーションすらも取れるようになった場合、果たして幽霊を怖がる人はいるでしょうか?
幽霊やお化けと言うのは、その存在自体が曖昧であり、この世界に存在しているのかしてないのか不明な物体であり、何がどうなっているのかわからないからこそ、恐怖を感じるのではないでしょうか。
実際の所、幽霊はいるかもしれませんし、もしかしたらいないかもしれません。
でも幽霊をいないと信じ切ることにより、幽霊という対象そのものに対して恐怖心を感じる事は無くなります。
なぜならば、幽霊という存在はありえないと、自分の中では『知って』いる事になるからではないでしょうか。


そして『死』。
死が怖いのも、死後の状態、つまり死んだら一体どうなるか、というのが全く解明されていない、分からないからこそ、怖いと感じるものだと思います。
そのため、人々は死後の世界を自分なりに解釈して、そしてそれを真実だと信じ切る事により、『死』という恐怖心を和らげています。
熱心な宗教家の中には、死を恐れない人というのは珍しくありません。 なぜならその人達の中では、『死』の後にどうなるかというのが明確になっているから。
いや、この場合はそれを信じているからといったほうが正しいかもしれません。
だからこそ、宗教を持たない人よりも死を受け入れやすいのだと思います。

星新一のショート・ショート(短編)小説に『殉教』というのがあります。

1人の科学者が、ある機械を作った。
その機械は、死後の世界との通信が行える通信機だという。
その機械によると、死後の世界は生の世界よりもはるかに居心地がよいという。
それを知った人々は次々に自らの手で死んでいく。
その自殺現象はその国のみならず海外にまで波及を及ぼし、世界規模で広がっていく。
人々は長い列を作り、前の人が機械であの世の知人と会話をし、そしてそれを後ろの人に手渡して自殺をする。
それが繰り返され、まるで機械が人間をドミノ倒ししているかのごとく、機械の後ろには死体の長い列が出来ていく。
途中、国が強制的に死ぬ行為を止めようとしたが、効果なし。
力ずくの方法、いわゆる警察や軍隊の力を持って止めようとしても、まったく無意味。
なぜなら、これらの武力により最終的に実施される力といえば、死を与えること。
しかし、この機械によって死への恐怖がなくなり、『死』という最大の脅し文句が完全に意味をなさなくなってしまった今、もはや人々が自らの手で命を絶つことを止める事は出来なくなった。
そして遂にはこれを止めようとした国家の首脳陣達の中にも次第にこの自殺を肯定するものが出始め、最終的には制止をあきらめてしまうのみならず、彼ら自身もその自殺の列に加わるという。
最終的にほぼ全ての人類が死に絶え、この機械自体は信じているがどうも自殺する気にはなれないという、ごくわずかな人間だけが生き残る。

というのが『殉教』の大まかなあらすじですが、どう思います?
これも結局の所、『死んだ後にどうなるか』というのがその機械によって解明される、そしてそれが生の世界よりすばらしいものだというのが判明したため、ほぼ全ての人類は自ら死を選択したという結果になったというわけです。
『知らない死後の世界』というのを知る事が出来たため、このような結果を最終的に招くようになったのではないか、と。


宗教。
宗教家達が死を宗教を持たない人達よりも恐れないのは、彼らの世界観の中にははっきりと『死後の世界』もしくは『死んだらどうなるか』というのが確立されているからでは?
輪廻転生する、魂が天に上る、天国へ行く、地獄へ行く、あの世へ行く、三途の川を渡る、仏様になるなど、これら全ては死後の状態のイメージですが、宗教を持つ人の場合、死ぬとそのような状態になるというのを信じてやまないからこそ、自分の死を受け入れられるのではないでしょうか。
だからこそ、『死』に直面しても、それに対してそれほど恐怖を感じないのでは。


自分より強大な存在。
例えば山で腹を空かせた猛獣などに遭遇した時、例えば明らかに自分よりも強そうな人(達)とケンカになった時、例えば銃や刃物などをつきつけられた時、人は少なからずとも恐怖を感じるはずです。
なぜならば、このような状況を解釈すると『自分より強大な存在=自分はその存在に自由にされる』となり、そしてそれは『自分はその存在に自由にされる=何をされるか分からない』となるわけで、すなわちそのような状況に陥った時、自身はこれからどうなるか予測できない、つまりわからないと言う事なので、恐怖を感じるのではないでしょうか。
で、こういう場合は大抵怪我に続き、そして最終的には『死』という事になるわけですが、そうなると今度は上でも書いたように死に対して恐怖を感じる事になります。
1つイメージをしてみましょう。
クマやライオンは、武器を持たない人にとっては脅威となる存在です。 しかし、動物園のクマやらイオンに対して恐怖を持つ人はまずいません。
なぜでしょう?
それは、動物園の檻の中にいるクマやライオンは人間に対して手出しが出来ないようになっているからであり、そして人間側もそれを分かっているからでは。
つまり、何が起こるかあらかじめ『知っている』からこそ恐怖を感じないということになるのではないでしょうか。


今までいくつか例をあげて説明したように、恐怖とは未知なるモノ。 そして未知なるモノだからこそ、人は恐怖を感じる。
というのが、私の持論です。
したがって、恐怖を克服するためには、その対象に対して、真実であれ虚であれ、まずはそれ自体を知る事、知るべき事、知ろうとする姿勢こそが、恐怖心を和らげるのに必要な要素となるのではないでしょうか。